『ilove.cat』「キャットインストラクターが教える、猫との信頼関係の築き方」Edit&Text:Madoka Hattori
http://ilove.cat/ja/12982
坂崎清歌さん(http://happycat222.com)
このインタビューの中で坂崎さんは、
「信頼関係」の事をずっと言ってる。
クリッカーが単なる芸ではない事。
また、猫をコントロールする方法でもない事。
コントロールという言葉も人により、時により、ニュアンスが違ってしまうのだけど…
レオが怖くて吠えている時、
吠えが迷惑なのではなく、
吠えているレオの心情が可哀想で、
それをナントカしてあげたい…と思っていた私。
↑この思いに関しては揺れた事は無かったのだけれど、
でも、私がレオにしていた「方法」は、
「私」が「ナントカ」させようとしていた。
レオの為にと思ってしているのだけれど、
レオ不在…というか。そういう事だったのだと思う。
だから、レオは私のコントロールを受け入れなかった。
その後、表面的に見えるやり方を変えたワケでは無い。
なぜなら「方法」は間違っていなかったから。
でも私の気持ち…というのか、そういうのが微妙にスライドしていくにつれて、レオの反応が変わっていった。
文言は最初の思いと変わらないのだけれど、
レオと向き合う時の私の立ち位置…というのか…が変わった。
すると、レオが私の思いを受け入れてくれるようになったのだ。
レオの反応が良くなる事で、
私のした行動が「正しかった」のだと、レオから正解を貰う。
その前は、私が「こうして欲しい」という「ゴール」を設定していたのだと思う。
正解のモデルケースを設定してあって、それと同じようにレオが動くように…と。
そういう事をさせようとすると、レオからは猛反発をくらった。
坂崎さんがクリッカートレーニングで築いて欲しいと思っているのはこういう事なのだろう…というのは、そういう紆余曲折を経た今だから、分かるような気がする。
でも「方法」というのは難しい。
「クリッカーなら」「クリッカーだから」…優しい方法…というワケではないのだ。
クリッカーを芸を教える為だけに使ってしまう人もあるだろうし、
クリッカーを命令としてやってしまうかもしれない。
報酬があれば優しいのか?
叱りがなければ優しいのか?
言う事を聞かせたい、
自分の望んだ結果に持って行きたい、
そういう思いで臨む限り、
クリッカートレーニングでさえも支配的になってしまう。
使う人、なのだ。
学習理論に則った方法だから伝わりやすい。
だからこそ、出来上がった「芸」という「結果」ではなく、
作りあげていく過程で相互に繋がったコミュニケーションチャンネルを大事にしなければ。
命令である限り、優しくは無いと、私は思う。
レオは私が命令と思わなくても、
レオが命令と思ったものは受け取ってくれなかった。
こういう犬は私に「間違い」だとフィードバックを返してくれているのだから、実は有り難い。
「命令」をされる事が苦でない犬もいる。
いや、犬はむしろ苦にしない。
だからこそ、クリッカーで芸を仕込んで満足!では勿体ない事だ。
余計なお世話だが^^;
クリッカーを命令を伝える道具にしてしまってはイケナイ。
クリッカーで上手に指示を伝えられるようになったらそれで満足…では、大事なモノを見落としている。
命令とコミュニケーションは違う。
命令は一方通行だ。
伝えた指示の結果しか見えていないと、指示が通っただけで
「自分と相手はコミュニケーションが通じた」と勘違いしてしまうのかもしれない。
それはコミュニケーションではなく、命令なのだ。
コミュニケーションというのは相互に行き交うもの。
コチラからの指示が伝わり、
相手からの反応を確認する。
相手からのフィードバックを受け、
その上で、コチラの次の行動が起こり、
それによって、また相手の行動が起る。。。
インタビューの中の
「―トレーニングをすることで得られる一番のよい点は?」
この質問への坂崎さんの答えがそうですね。
相互に行ったり来たり。
つい主観になってしまうのは、誰しも仕方の無い事なのだけれど、
コミュニケーションは「私」の思惑だけで成り立つものではない。
相手が人に限らず、犬でも猫でも。
私は前の記事で、
罰とは…
「行動の後の嫌な事←つまり、これが罰です。」
と書いた。
行動が減っていったら、それが罰なのです。
坂崎さんのインタビューでサラッと「褒め」について書かれています。
行動分析学を齧っていないと、サラッと通り過ぎてしまいそうです。
なぜなら「自分は褒め方を知らない」と思っている人は、まずいないだろうと思うからです。
自分が褒め方を知らない…と悩んでいる人であれば「!」となるかもしれない。
坂崎さんのインタビューには、
「トレーニングでいう“褒める”というのは、行動を増やすこと。」とあります。
そうです。罰は行動を減らす事。
行動が減ってしまったら「叱った」という事なのです。
自分は叱っていません、という人は一杯いますが、
叱ったか否かは、ワガコが教えてくれます。
ドッグイズミラーですね。
褒めは行動が増える事。
上手に「褒め」が伝わっていたら、
褒めの前にしていた行動が増えるのです。
褒めもちゃんと出来ていたか否かはワガコが教えてくれる。
これもドッグイズミラーですね^^
クリッカートレーニングを支配的な意識でしたら、
多分「褒めポイント」を見つけられないと思います。
坂崎さんがカメラの事をおっしゃってますが…
絶妙な瞬間を切り取るには、技術だけはない、被写体への愛情がないと細かい観察は出来ない。。。
私の尊敬するカメラマンの方は、空手の試合写真を撮る時に連写を使っていませんでした。
聞くと、その瞬間を確実に撮る為には連写では難しい。
狙ったところとズレてしまう、というのです。
こんな早い動きの中からその瞬間を抽出して、たった一瞬のシャッターを切る…のですね。
この方は自分でも空手をする人だったので、
「その瞬間」を良く知っているのです。
だから、出来上がった写真はまさに技が決まる瞬間のものばかりでした。
指導の上手な先生の「そう!」というタイミング。
自分では気付かない瞬間を掴まえて「出来てるよ!」と言ってくれる、その時は自分では分からないのに、その感覚を頼りにしていくと、どんどん掴めてくる。
「そう!」を上手に言ってくれる先生の時間はコッチも楽しい。
逆に「ダメ」ばっかりの先生もいて…
一時間で全てを辞めてしまいたくなりました。
…そんな事を思い出しました。
「そう!」というタイミングを掴まえる練習。
「褒め」を伝える練習。
相手の反応を見る練習。
知る練習。理解する練習。。。
クリッカートレーニングで、犬や猫をトレーニングしていると思ったら大間違いですね。
人間が見たり褒めたり…そういう事を学ぶトレーニングですね。
支配性をどこかに持ってトレーニングしたら、
こういう細かい事をすっ飛ばして、ガーッと「正解」と自分が思っている「結果」としての「芸」を押し付けちゃうんだろうな。
実は私、レオが最初に来た時に、3日目位で「オスワリ!」ってやったんのです。お尻をちょっと押したらレオはすぐに座ったので「褒め」ました。
……その時のレオがどよ〜〜〜んとしてたんですよ。
そもそも私の目すら見ないのが通常だったのですが、
それが、より以上にどよ〜〜〜としてしまった。
「私に褒められても嬉しく無いんだな」と思いました。
一応食餌の前にはオスワリとかさせるべきだ…みたいな気持ちがあったので、させてはいたものの…暫くしてヤメました。どよ〜〜んが私にも辛かったから^^;
だからオスワリという行動は強化されたのですが、今思えば、好子消失阻止の為のオスワリだったのか…
私はレオにとって「褒めてもらって嬉しい」そういう存在ではなかった、のですね。
そういう関係の作り方が、坂崎さんがおっしゃるクリッカートレーニングなのだと思います。
結果として芸を教える事ではない、
トレーニングの過程で絆を作り、互いのコミュニケーションツールを磨いて、意思の疎通を滑らかにする。
その為にするのがクリッカートレーニングである。。。
「問題行動があるからトレーニングをするのではなく、猫が楽しんでくれるから一緒にトレーニングを楽しむ。その結果、人間から見た時に問題だと思われていた行動も改善されていく。それが私の目指すトレーニングなのです」(インタビュー記事より)
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