議論をする…ということ。
私にはまだ危なっかしくて、限られた条件下でなければ出来ませんが。
限られた条件下。。。
ああ、道場でのスパーリングに良く似ています。
同じスパーリングでも…
まず、信頼出来る指導者の元でなければしない。
自主トレの時に誰かに誘われてもキチンと止められる「介入」出来る人がいない時には勇気を持ってお断りする。
スパーリングしている同士では友人であっても、エキサイトしている最中には止められなくなってしまう。互いの気持ち=意地もあるしね。
だから、やる前は「この人となら大丈夫かな?」と思っても「介入」を任せられる人がいない限りはしない。
介入を任せられる人がいてもしないのは、相手が信頼出来ない人の場合。
気心が知れていて日常的には仲良しであっても、
スパーリングになると人が変わってしまう人もいる。
「練習」でなく「勝負」になってしまう人。
こういう人とはしない。
こういう人は常に「敵」を持っている。
道場だから当然と思われるかもしれない。
だが、敵を自分の外に作ってはならない。
まして、全力で殴り合う世界だ。
毎日全力で殴り合っていたらそれは練習じゃない。
潰し合いだ。
昔の道場は潰し合いで、生き残ったものの世界だったかもしれない。
今は…そういう人もいるけれど、そうでない人…というか、潰し合いなどは基本的には推奨されない。人が育たないからだ。
敵は己にあるのだ。
だから、敵を作りたがってエキサイトしやすい人は、良い人であっても練習中の信頼関係は残念ながら結べないのでスパーリングはしない。
誘われたら直接的なコンタクトをしない別な稽古に誘う。
逃げるのか?と思われるのが悔しくて受けて立ってしまう人もいる。
しかし…これはだいたい怪我をする。
見事にどちらかが怪我をする。
だから、内心に悔しさがあっても「スルー」すること。
ノーリードの時、レオは吠えない。
危なっかしい関係の犬とは目線を合わせない。
走り回って逃げることもしない。
スルーの達人達犬だったのかも^^
そう、まだレオが若くてチャーリーママさんを知らない時、
いつも吠えるレオが吠えずにウロウロしているのを見て、
「自力で逃げられれば吠えないのか…リードのせいだったのか…」って思ったんだったっけ。
だから、チャーリーママさんを知る前から、挨拶の時リードは緩ませる。それがイヤだと感じる犬とは挨拶しない…って決めたのだった。
だからチャーリーママさんの「スルー」はすっごく意味が分かったんだよな…
受けて立たないレオを偉いな〜って思ったっけ。。。
あ、脱線しました。
試合でも「アイツには負けたくない」と言う人は結構いる。
確かに向かい合った時に「この人には負けたくないな〜」という相手がいないワケじゃない。
でも、そんな心境で試合場に立つのは非常に辛い。
そして、思ったような試合も出来ないのだ。
ヘタクソな私が唯一誇れることは、
相手に勝ちたい、負けたくない…という気持ちで試合をしたことはない、ということ。
自分の練習した技が出せるか?この試合での「課題」をクリア出来たか?
そのことに集中して試合をすることが出来た。
これは歳をとってから空手を始めて良かった…としみじみ思えた。
若い子と一緒になって勝ち負けは争えない…って思っていたから。
殴り合いはしたが、憎しみ合いは無かった。
切磋琢磨して稽古したが、いつも体は苦しかったが心は楽しかった。
だから、道場で出会った仲間を私は今でもリスペクトしている。
仲間は今でも大好きだ。
議論をする。
意見が対立する。
対立した意見の持ち主を「敵」と感じると「言い負かしたくなる」
コチラが敵と認識したら、アチラも迎撃に出るのは当然だ。
互いを敵同士と認識し合う事になる。
ここに争いの火種がある。
道場が「敵だらけ」になってしまう人もいる。
道場をどんな場所、道場生というライバルを技を高め合う仲間とするのか、技を盗んだり打ち負かしに来る憎い敵とするのか、どんな存在とするか…それは、その人の胸先三寸だからだ。
しかし、自分の外に敵を設定し続けること…これは苦しい、と私は思う。
私が求める対立の終決モデルは「合議」コンセンサスを得るということ。
殴り合いが憎しみ合いでは無いのと同様に、
意見の対立も憎しみ合いでは無い筈だ。
意見が対立するということは、幅広い可能性からゴールを選択出来る、可能性が広がるということの筈だ。
という理想はある。
しかし、議論の技術が無いな〜…と凹む。