昨日「朝まで生テレビ」を観た。
http://www.tv-asahi.co.jp/asanama/
http://www.tv-asahi.co.jp/asanama/video/1302/program.html
テーマは「体罰」
出演者は
番組進行:渡辺宜嗣(テレビ朝日アナウンサー)、村上祐子(テレビ朝日アナウンサー)
司会:田原 総一朗
パネリスト:
馳浩(自民党・衆院議員、元文部科学副大臣)
鈴木寛(民主党・参議院議員、元文部科学副大臣)
東浩紀(早稲田大学教授、批評家)
乙武洋匡(作家、元小学校教諭)
香山リカ(精神科医、立教大学教授)
坂根シルック(東京農工大大学院特任助教、フィンランド出身)
高橋史朗(明星大学教授、元埼玉県教育委員長)
玉木正之(スポーツ評論家、筑波大学大学院非常勤講師)
寺脇研(京都造形芸術大学教授、元文部科学官僚)
藤原和博(東京学芸大学客員教授、元杉並区和田中学校校長)
八木秀次(高崎経済大学教授、教育再生実行会議委員)
大きな気付きが私の中であった。
坂根シルックさん
『否定しないことの素晴らしさ 』
http://amba.to/Ysa00h
私の昨日のツイート
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(注:RT @●●●●○●●●●◇で始まっている文章は、私が共感してリツイートした方のものです。時系列が残念ながら上が新しく、下が古い…です。)
posted at 12:08:16
RT @chaiori: 自分に自信を持たせること。そのための考え方が日本人には足らない。足並み揃えることを、自分を信じる前に強要されるから空気を読むスキルを持つことが最重要課題になる。 #asamadetv
posted at 05:02:23
RT @tokada: LINEは完全な棲み分けを可能にするし、遠くに言葉を届ける可能性も失くすけど、それはローティ的なアイロニーとは相反するのではないだろうか。「仲の悪いことを認める」以前に、「仲の悪いのは始めから見えない」感じ。 #asamadetv
posted at 05:01:52
RT @kuronekonell: #asamadetv フィンランドの教育ってすごいの?→すごい起業家いるの?って言ってる方がいるけど、多分フィンランドのすごいの基準は全くちがうと思う。価値観は自分が作り上げてるんだってことを意識しながら生きないと空っぽになっていくと思う。
posted at 05:01:09
RT @yumi_pin435: 「報道の自由とは、悪い事を悪いと言える自由である。報道と名が付けば何をやってもいいという事ではない。」 #followmeJP #sougofollow
posted at 04:57:59
RT @TokyoZooNet_PR: 人間が口頭で指示を出し、動物が自らの体を棒などに触れるようにするターゲットトレーニング。血液採取や治療等ができるようになります。上野動物園ではツキノワグマのトレーニングを再開しました。記事→http://www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?kind=news&... http://t.co/1nxfxUiqHC
posted at 04:47:35
まず、自分を育ててくれる親からの愛情とか教師からの肯定感とか…そういう人としての力強い軸を作ってもらって、そうして社会の荒波の中ではじめて「承認抜きに自分を全肯定しろ」が実現できるのではないのかな。親や教師から肯定感を貰わなかった子供には至難の業だ。。。
posted at 04:30:29
大人への言葉で、育つ途中の子供向けではないかな〜。 RT @MulberryMt: ニーチェ的に言えば、「承認抜きに自分を全肯定しろ」ということ。承認を求めているうちは、他人の目、プライドというよりは見栄が気になって、いじめから抜け出せない。難しいけど。 #asamadetv
posted at 04:28:23
RT @MulberryMt: ニーチェ的に言えば、「承認抜きに自分を全肯定しろ」ということ。承認を求めているうちは、他人の目、プライドというよりは見栄が気になって、いじめから抜け出せない。難しいけど。#asamadetv
posted at 04:25:47
RT @nagao_memo8: 東さん「(イジメの対処として)回りの人と仲良くする必要はないというメッセージを発すること」。ホントその通りだと思うわー。途中の議論でもあったけど、親同士も教師同士も仲良くないのに、何で子供だけには「みんな仲良く」とか言ってんだと。 #asamadetv
posted at 04:25:05
どっかね〜。。。「教育」…自分を育てる中心である親や教師が「肯定」してくれなくて、どこかに探せ…というのは酷だよね。「育てる人」それを仕事にした人は、まず育てる対象を「肯定する」じゃないのかな。 #asamadetv
posted at 04:24:06
RT @nekomata_kengyo: ネガティブな感情をネガティブな感情のままで肯定する緩さは欲しいな。 #asamadetv
posted at 04:04:14
RT @keisukenaya: コミュニケーションにはリスクを伴う、つまり言葉は人を傷つける可能性があるって認識のもとで、対話の経験を積み重ねていくって大事だよ。#asamadetv
posted at 03:57:33
それもアリだよ、じゃあどうしようか?っていうのが「違いを考えよう」ってことじゃないの?東サン、もっとシルックさんの話しをちゃんと聞いた方が良さそうだなあ。ちょっと慌ててるかも。 #asamadetv
posted at 03:52:55
シルックさんが言うのは「皆の違いを認めろ」ではなくて「土台として違いを認めよう」だよね。違いを認め合う=皆仲良く ではないよ。そう、違うってことは仲が悪いってことでもある。 #asamadetv
posted at 03:52:40
まあ、田原サンは自分がしゃべりたい人でファシリテーターではないものね。司会というよりも仕掛人というべきかな。 #asamadetv
posted at 03:46:16
田原さんにマイケルサンデル式の議論は無理だよね。田原サンに自己肯定感は理解出来ないんじゃないかな。田原サンこそ、力で黙らせちゃうんだもん。それは議論が白熱しているんじゃなくて、タダのケンカだもの。そんな議論の場には参加したくないよ。。。 #asamadetv
posted at 03:44:58
「負荷を掛ける」というのは「甘やかさないで叱る」ってことじゃないよね。この方の感覚好きだな。少し頑張ったら乗り越えるられる小さな目標を示してあげること、見守ること、だよね。 #chu16memo #asamadetv
posted at 03:19:41
日本本来の教育は体罰を用いない http://www.trend-review.net/blog/2013/02/002494.html #日本を守る
posted at 02:44:13
細かい指摘で縮こまらせない。全部受け止めてあげるよ。自己肯定感。…乙武さん。 #asamadetv #chu16memo
posted at 02:36:38
「苦手を認めない」「欠点の指摘し合い」が息苦しい社会を作っているのではないか…乙武さん。 #asamadetv
posted at 02:32:45
坂根シルックさんの「条件付きの愛」…わかる〜「イイコ」でないと愛されない。心の底辺にある恐怖心。日本社会にはあるよ。ある!だから大人同士も「いい人」でいないと爪弾き…仲間はずれにされる恐怖がある。それがイジメの温床。日本社会の特徴だと思う。 #asamadetv
posted at 02:30:55
出た!「肯定感」!そう、体罰や叱りは「否定」。 #asamadetv
posted at 02:19:34
「感情をコントロールしている大人」というアイデンティティモデルを持っていない大人だから、子供を導く為に忍耐力が必要になってしまうのではないか。体罰云々ではない。人を導くのは叱りではない。感情をコントロールする事は、圧力で我慢させる事では学べない。 #asamadetv
posted at 02:11:34
だから、親や周囲の大人はそれを導くのは当然じゃないか。それを「聞き分けが無い」と圧するのでは感情のコントロール方法子供は学べない。今の大人たちは自力でなんとかやっているのだろうけど…だから不完全だ。叱られて育った子供にはアイデンティティモデルが無い。 #asamadetv
posted at 02:05:36
朝まで生テレビ 坂根シルックさん!そうだよ、2歳3歳だからこそ、上手くコントロールできない自分の感情をコントロールして、相手に伝えたり我慢したりを学ぶのではないか!話し始めた子供が、「感情をコントロールする」ということを学び始めたトコロじゃないか。→ #asamadetv
posted at 02:02:43
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さて、仕切り直し。
昨日「朝まで生テレビ」を観た。
http://www.tv-asahi.co.jp/asanama/
私の中でずっと疑問符だった「叱らなければ分からない」にやっと整理がついた。
坂根シルックさんの子育てのお話。
2-3歳の我が子を叱らないで導く場面。。。
坂根シルックさん、ありがとう^^
シルック(Sirkku)の"にいた・ないた"
http://ameblo.jp/sirkku-finland/
大変な忍耐が入り用だったと。
…分かった!
2-3歳の頃、初めて人間として言葉を話すようになり、
言葉を使って自分の希望を他者に伝え始める時だ。
希望は叶う事柄も、叶わない事柄もある。
それは仕方ないのだけれど。
まず、大抵は一番最初の「自分の希望を伝える」で躓く。
いや、その前だ。
「自分の希望は何か」を、まず自分の中で「整理」出来ないのだ。
感情をコントロールする…というのは、縺れた糸を解すようなものだ。
イライラして投げつけたのでは、その一瞬、絡んだ糸と離れることは出来ても、
問題は何も解決しない。
糸は辛抱強く丹念に解すしかない。
ハサミで切ってもダメだ。
切り口は「痛み」だ。
短くもなる。
慌てて結んで繋いでも、結び目は新たな絡みの元になる。
大抵の人は思春期〜大人になって、自分のどうにもならない感情の絡みに気付いて、
これを何とかしようとする。
しかし、大人になってしまって複雑に大きく絡み付いた糸の固まりを解すのは本当に難儀だ。
そもそも、その方法を知る人も少ない。
忍耐と共に時に痛みも伴う作業だから、諦めてしまう人も多い。
いや…違う。
「感情をコントロールする」という言葉を聞くと、
「感情を抑えること」「我慢すること」とイメージする人が多い。
そうではない。
というと、今度は酒を飲んで大騒ぎをするような…
ひたすらにヒステリックに感情を発散しようとする。
残念ながらそれも違う。
感情をコントロールするというのは、
自分の本当に言いたいことを自分で自覚して、
それを他者に伝えるか否か選択することだ。
クレーマーの電話が長いのは、
クレームをしている本人も、一体何が一番癇に障ったことなのか、自分でも分からず、
言葉に出来ず伝えられていないから、クレームして電話口の人間が「汎用型の謝罪」をしても納得いかないのだ。
クレームする方も、本当の要望を伝えられず、
対応する方も意図が分からず、トンチンカンな謝罪を繰り返して、余計に互いのイライラを募らせる…のかな、と。
これは、糸を絡み付かせたまま大人になってしまったからだ。
大きな糸玉…
2-3歳だったら?
絡みは一つの小さなモノなのではないだろうか?
しかし、当然、子供ひとりではその絡みは解せない。
リアルに、子供に糸を渡して結び目を解せと言ってみる…想像する。
心の糸玉も全く同じなんじゃないだろうか。
大人…親や教育者は、
その糸の解し方を、一緒に解してあげながら、解し方を教えてあげる役目なのではないのか?
小さな糸玉の時から解し方を知っていれば、大人になってもちょっと絡んでも解し方も知っているし、少しの辛抱で絡みを解せるのではないか?
2-3歳の子供に大人がしてあげることは、
感情の糸の解し方を一緒にやってあげることだと思う。
もし、この場面で糸玉を抱えた…上手く自分の気持ちを伝えられない子供が叱られた場合。
まだ自分の気持ちを言葉にも出来ない段階で、押え付けられる。
ゴロゴロとした糸玉の違和感・不快感を抱えたまま、これた「耐える」「抑える」ことだと教えられる。
本当にそうなのか?
この時期に感情のコントロール方法(糸を解す)を習わなかった子供は、
叱られることによって習うのは、
異なる意見、噛み合ない感情を持つ他者を「抑圧」する事だけだ。
そんな親に反発を感じつつも、
そういうアイデンティティモデルしか持っていないから、
結局、同じ事をしてしまう。
自分で自分を育て直さない限り、そこから抜け出せない。
まず2-3歳から「内省」に方法を身につける。
自分の意見を発して良いモノか否か、判断する。
ここからはコミュニケーションのテクニックを学ぶ段階だ。
受入れられない時はどうするのか?
異なる意見に出会った時はどうするのか?
自分の本当の要望に自分でも気付いていない状況で、
コミュニケーション云々は無理だ。
内省して糸玉を解す方法を身につけないと。
さて、異なる意見。
坂根シルックさんは、もう一つ「皆、それぞれ違うでしょ」という事も言っていた。
「多様性」ということ。
これ「世界で一つの花」だと思う人が多いんだけど、
本来の世界で一つの花はそういう意味だと思うのだけど、
一般的に「世界で一つの花」をイメージする時に、
可憐なバラであったり、チューリップであったりするんだと思うんだよね。
雑草であっても、せいぜい、シロツメクサやおおいぬふぐりとかね。。。
ラフレシアや食虫植物やイチジクの花やシュロの花を思い浮かべる人っていないと思う。
でも、世界で一つの花ってそういう意味で、
誰も振り向かないような、もしくは醜悪と思われるような姿形であっても、
「花」だよね…という意味のハズなんだ。
でも、いつのまにか「世界で一つの花」=「世界で一番美しい花」になってしまっていると思う。
東浩紀さんは「多様性を認めろ」というところまで飛躍させて受け取ってしまったけれど、
シルックさんが言いたかったのは「まずそれぞれが違うということを理解して認めることを土台として…」ということだと思った。
議論の席に着くにも、まずそこからだ。
そして、そうなって初めてマイケルサンデルの言う「共通善を見つけようではないか」という話し合いが始められる。
多様性を認められない人は議論の席には着けない。
誰でも自分の思う正いことが正しい。
これは、誰にとってもだ。
全く理解出来ない犯罪者の理屈でも、その犯罪者本人にとっては「正しい」のだ。
もし、犯罪者に「あなたのしたことは赦されない犯罪です」ということを理解してもらうには、まず相手の「正しい」を知らなくては始まらない。
これが「他者理解」「多様性」を知ることだ。
そして、その人が犯したことがやはり罪深いことであるならば「肯定」する必要はない。
そこで初めて「否定」を伝える。
でも、普通は「他者理解」は飛び越されてしまう。
反対意見、異なる意見は、「自分が否定」された気持ちになるから受け入れ難いのだ。
親から叱りという抑圧で育ってきて、絡んだ糸玉の解し方を知らないままに生きている身では、「反対意見」によって更に絡んだ糸を解すのはシンドイ。
だから、その絡みは「怒り」に直結してしまう。
意見の否定と人格の否定の区別が出来ないのだ。
そもそも、糸玉を解すという「意見と人格を分ける方法」を教えられず、ひたすらに抑圧されてされてきてしまったからだ。
否定は全て人格を否定された気持ちになり、癇に障る。
他者との争いを生む。
もちろん、相手も意見と人格を分けられない。
それも余計に難しくする。
2-3歳の頃から、自分の感情をコントロールする方法を親から学び、
同じ方法で「相手の身になって」「相手の気持ちを理解する」=「他者理解」「相手の価値観にそって想像する」
これが思いやりで、つまり「愛」なのではないのか?
…じゃあ、アンタは出来てるんだね?
なんて愚問はナシで、ひとつよろしく^^;
たった一ぴきの犬に振り回されている私です。
思うことが思うままに出来れば誰も苦労はしない。
でも、だからこそ、日々、糸を解すよ。
その努力はしている。←自己肯定ね。ここ、卑下して否定しちゃダメ。
ココ卑下したくなるのは、謙遜しとかないと「イジメ」に来る人がいるから、
予防として謙遜する人が多いけど、勇気を持って自己肯定するね。
それが、まず一歩。
こういう場面で「アンタは出来てるのか?」って、
「アンタ」という人格を否定しにくる人というのは、
自分もそうされて来た人。
その「同じ我慢」を他の人にもさせたいの。
それって不幸の手紙ね。
若い世代に引き継がせたら「負の遺産」。
これはどこかで断切らないとダメ。
自分が損したから…でも、その損は自分でおしまい!にしよう。
意見の違う他者を人格ごと否定してしまうのは、
結局、相手と同じあやまち。
自分を肯定することと、相手の意見は何の関係もない。
ただし…だ。
嫌いな人、気の合わない人はいるよ。
誰とでも仲良くする必要なんかない。
それは仕方ないことなんだ。
それは「愚行権」ね。