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評価:
岩田 宗之
新潮社
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(2007-10)
コメント:ディベートが嫌いだ、と言ったらある方から薦められた本。
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やなおさんとコメント交わしていて、やっぱり、このテーマも一度書いておこうと思おう。
やなおさんやまっちゃんママさんや、あ6699さんやらくがき庵さんやしおやまさんや…
教えていただく事の方が多くて、まさか…と思うのだが、
実は、これらが「議論」なんですよ、ね。
「議論」っていうと、
「意見を言うもの」
「反論をするもの」って思う人が圧倒的だと思う。
私も、そう思っていた。
だから、人が何か言うと「何が同意できて、何が同意できないか」
同意出来ないと思ったら、どう反論するか。
そんな風に身構えていた気がする。
…そう身構えていたのだ。
「議論の場」というのが、意見を付き合わせて、どちらの意見が通るかという勝ち負けの場だと思っていた。
さもありなん。。。
小学校の学級会も、朝まで討論も、国会中継も、皆そういう事をしている。
そして、最後には「多数決」で「正しい意見」を決める。
これが「日本の民主主義」だ。
でもね、多数決って単に「功利主義」なだけだよ。
「最大多数の最大幸福」だ。
多数決は便利だ。
複数人で何か1つの結論を出さなければならない時に、
どこかで線を引かなければならない。
もっとも多くの人が満足する結論であれば不満を唱える人の数はそれよりも確実に少ない。
少数の反対派を封じるには都合がいい。
もちろん「満足」を感じる人が多いということは「常識的」で「幸福感が多い」ということではあるが。
功利主義による多数決には、少数の反対派の「犠牲」があることを忘れてはならない。
日本では「多数決」が正しい事、全ての基準に思われている感じがしてならない。
裁判員裁判の評決が最終的に多数決と聞いた時にショックだった。
これが日本の民主主義の根幹なのだ…と。
少数、弱者を切り捨てる事が前提の民主主義であるということを、私達は知らなくてはならない。
脱線したが…。
議論が嫌いだ、という人が結構いる。
議論すると「ケンカ」みたいなモノになってしまうからだ。
たとえ自分の意見が通っても、指示されても、疲れるし、傷付く。
要らない事を言ったばっかりに心が消耗してしうのだ。
「要らない事」だったのか?
「言葉」にしたのは「言う必要がある」と思ったからのハズだ。
でも「議論」になったばっかりに心が消耗するのなら、
そうまでして「言う必要は無かった」…と後悔する。
こうして、またヒトリ、議論を怖れ口を噤む人が出る。
特に、ブログのような匿名の場では、
自分だけは傷付かない場所から、ブログ主を攻撃する事が出来る。
これは、ネット上のルールとしてはアリだ。
禁止するか否かは各ブログ主が決めればいい。
その自由選択を私は良いと思う。
それをどう使うか、は「その人の人間性」による。
腹が立ったからと、捨て台詞や、荒らしをして楽しむのか…
それは、その人の人間性の問題だ。
自分の意見を言いたいのなら、
自分のブログですれば良い。
それとは別に、匿名で誰かを傷つけたい人が、
通りすがりに捨て台詞を書いて行く。
誰かを傷つけても、アナタの心は鎮まらない。
アナタの反論が正しと思うのならば、
匿名の日陰ではなく、
陽の当たる真っ当な場所に書いてあげる方が良い。
ブログ主だって多くは匿名だ。
でも固定ハンドルだ。
コテハンは「ソコ」に定着して過去ログを抱えて年単位で「在る」のだ。
ネット上での人格が既にあり、リアルから見れば匿名だが、
ネット上では文字通りネットワークを構築している。
「匿名」によって逃げられない状態なのだ。
そういうブログの中で意見を言う人は、
それらを背負って発言をする。
通りすがりに捨て台詞を吐いて行くのは「意見」ではない。
現実社会では黙って通り過ぎている人が、
ネットでは捨て台詞を吐く。
捨て台詞でなく、キチンとした意見であれば、
自分が通常使うハンドルは最低限。
出来れば自分のブログのリンクを張るべきだと思う。
自分の反対意見が正しく、それを多くの人に知ってもらいたいなら、
自分のリンク先を張って、自分の意見を広く伝える方法を取るハズだし、べきだ。
ブログ主にだけ知らせたいなら、
ブログ主が知っていれば公開の場に書く必要は無いけれど。
自分が意見を言いたいブログ主に自分がどういう人間か全く伝えない「とおりすがり」は、
捨て台詞に繋がる。
私は議論にも人の話しを聞く事にも自信が無いから、
あまり皆さんのブログにコメントはしない。
コメントする時は、HNを名乗る事、ブログのリンク先を張ること、を自分に課している。
それが出来ないのであれば、基本的にはコメントはしないことにしている。
同意であれば、匿名でもほぼ構わないとは思うが。
しかし反論であるならば、相手の方の心に踏み込む事になるから、
自分も覚悟しなければならない。
ブログ記事のような独り言ではなく、
コメントという特定の誰かに向かって意見を言うということは、
諸刃の剣だ。
相手を傷つける以上に自分が傷付く覚悟がなければならない。
それがHNとリンク先だ。
その覚悟が無いなら「一方的に相手を傷つけたい衝動」に自分が狩られているのだ、と理解してコメントは控える事にしている。
ああ〜また前置きが長くなった^^;
枕の長過ぎる落語家みたいだ^^
そのくらい、議論をする場では対等でなければならない、ということ。
不用意に議論をしたら傷付く事がある。
というか…反論の応酬は、大体疲れるし、疲れるということはどこか傷付く。
だから、それを恐れて議論そのものをしない人はいる。
でもね、それってそもそも「議論」のしかたが間違っている。
この本。私はネット上のサイトで読ませて頂きましたが。。。
議論のしかた
http://iwatam-server.sakura.ne.jp/software/giron/giron/index.html
このサイトの中の議論の精神に…
議論の精神
http://iwatam-server.sakura.ne.jp/software/giron/giron/ar01s03.html
議論とは何か
議論とは人の意見を聞いて理解する場である。
とあります。私はこれだと思うのです。
ソクラテスは議論好きの爺さんだったそうですが。
ソクラテスは「アンタの言う事は間違っている」と「反論」をして歩いたんじゃないんですね。
「質問」をして歩いていた。
「それはなぜ?」って聞いていたんだと思う。
盲目の師匠 10 ■師匠の死
http://bard.jugem.jp/?eid=1051
しかし、この人のいけないところは、相手かまわず、だれかれとなく議論を吹っかけることだった。このために体面を傷つけられたと思った人は数知れず、とうとう町中の嫌われ者となって裁判にかけられてしまったのである。
自分が理解出来るまで、しつこく聞いたんだと思う。
「それはなぜ?」と聞く事がなぜ「相手の対面を傷つけたのか」
「なぜ?」と聞かれ続けるうちに、聞かれた人が自分でも最初は「正当だ」と思っていた意見のほころびに辿り着いてしまったのだろうな。
疑問点を正して行くうちに、ほころび…意見の破綻に辿り着く。
意見が正当ではないと追いつめられた人の「対面」が「傷付いた」のでしょうね。
でも、ソクラテスは相手の意見の綻びを探していたワケではなく、
ただただ単純に「なぜ?」って思っていたのだと思う。
「真実を追求」したかったソクラテスには、それが相手を傷つける事だとは思えなかった…のでしょう。
「議論とは人の意見を聞いて理解する場である。」
だから、自分が理解できない事を「なぜ?」と聞くのは当然なのです。
反論するには、相手が「こうだ」と思っている意見を自分も全く同じレベルで理解出来てはじめて、その続きに「…でも、ここが違うかも」という事になるのでしょう。
もしかすると、一見対立する意見であっても、
表面的な言葉のチョイスの違いだけかもしれないし、
同意すると思っていても、深く聞いてみたら根っこがちょっと違う事によって、
結論は正反対になってしまうかもしれない。
それらをホジクリカエシテ精査しましょう!っていうのが「議論」なのだと思う。
私が議論がいいな、と思うのは、
対等に議論すれば、タトエ結論の意見は違っても、
精査し合った人同士、これ以上の理解は無いという所に辿り着ける。
結論は違っても、だ。
ここが「宗教」との違い。
「宗教」は、まず「結論」が一致していなければならない。
そこがスタートライン。
理想的な民主主義は、完全なコンセンサスの上にあるのだろうと思う。
夢のようなユートピアの世界だけれど…それこそ宗教的な理想郷のようだけれど…。
意見の相違があっても、互いが十分に理解しあえる仲であれば、
互いを赦し合う事が出来る。
私が個人主義を良いな〜と思う事の1つに、
違った意見を持つ人との距離感の取り方、理解の仕方があるかな。。。
というワケで、
議論というのは「アナタの意見は間違っている」の応酬ではなく、
「それってどういう意味ですか?」と相手に聞いて教えてもらう事。
専門用語が分からなかったら教えてもらったり、
その上で、その人がなぜそういう意見なのか、それを互いに解きほぐして行く場、
それが議論の場。
これによって、互いの知識が環流して専門性が高まり、
その上で、肚の底から分かり合える。
まあ…簡単に短時間には無理でしょうけど。
学生時代はそんな密な時間を……若くて柔軟な張りのある魂だった頃は惜しまず出来たのだけれど。
でも、マイケル・サンデル教授の目指す所はソコじゃないかな〜なんて思う。