チャーリーママさんのブログに出会って、
犬(レオ)の為に色々考えたり、したりしてきました。
全部レオの為にしてきました。
けして自分に何かの利益があるように…という事は無かったです。
敢えて言えば、犬を扱う技術を得たら、
それはレオ以外の犬にも通じるだろうから、私の為かな…くらいな感じです。
私は社会化のドッグトレーナー
http://charliemama.weblog.to/
http://charlie1210.blog113.fc2.com/
レオはどうして吠えるんだろう。
どうしたら吠えないんだろう。
どうしたら吠えを止められるんだろう。
そんな感じだったでしょうか。。。
でも、今ふと気付くと、私が得たものは、
「自己肯定感」と「愛情(安心)の壷」という概念です。
犬云々ではなく、
私自身が自己肯定感を持てるようになっていました。
そもそも自己肯定感という概念は、私にはありませんでした。
チャーリーママさんの理論を学ぶうちに理解し、
自分を構成する大切な柱となっていったモノの一つです。
「肯定」って「正解」ってことじゃないんですよね。
「自己肯定感があるってことは、
なんでも自分が正しいと思っているんだろう?」
って、思われるように思いますが……
そうではなくて、
正しい事も、間違っている事もある自分を肯定できるって事です。
私は自己肯定感を持つ事が出来るようになりましたが、
だからといって自分のしている事や判断が、
全て正しいとは思っていません。
いえ、判断や行動は正しいと思える事をしようと善処するワケですが、
それらが結果として正しかったのか否かは自己肯定感とは関係ないのです。
私の行動の是非…犬に関する事は、レオがジャッジしてくれます。
「正しい」「上手く」出来たら、レオの反応は穏やか。
レオが不安になり吠え、それが止められない…となれば、
私の判断や行動は間違いなのだと思います。
レオのジャッジで是非は分かれますが、
それも、私の自己肯定感とは関係はありません。
レオに「間違いだよ」と言われる自分を受入れる=肯定するだけです。
これは、逆にレオを導く時も同様です。
レオが吠える時、
「今は吠えなくても大丈夫だよ」と、レオの吠えに「NO」を伝える。
「NO」ではあるけれど、レオを否定しているのではない。
レオ自体を否定する事は無い。
ただ、今のその「吠え」だけは「NO」と伝える。
この感覚…私の中では整理が着いているのですが、
最初は混乱しました。
言葉で何とか書き表したいと思うのですが、
かなり難しいと思います。
私自身区別がつかなくて、
レオごと否定していました。
そういう時はレオから必ず「間違い!」というジャッジが出されました。
レオは否定せず、レオの吠えだけ「NO」と伝える…。
この感覚が掴めるようになって来た頃、
レオから「間違いだよ!」の吠えがなくなりました。
「間違いだよ!」の吠えとは、
具体的にはちょっとリードが張っただけで吠えまくり、
「あっちへ行こう」というと反対に行こうとする。
そんな感じでした。
レオのジャッジは厳しいと思います。
それだけに、鍛えられたのだとも思います。
もう一つは「愛情の壷」。
チャーリーママさんに言葉では違うかもしれません。
でも、この概念もチャーリーママさんから学んだものです。
「満たす」ということ。
問題行動だからと、取り上げたり禁止したりする前に、
「満たされない」何かが問題行動を起こしているのではないのか?
そんな視点に立つ事です。
以前、こんな記事を書いたのですが、
この感覚を掴めたのは現在に繋がるターニングポイントであったと思います。
http://bard.jugem.jp/?eid=1233
犬という生き物を学び、
犬の言葉を聞く努力をし、
彼らの望むサポートをする=コミュニケーションが成立する。
そういう事の繰り返し、積み重ねから、
レオからの信頼や愛情を疑わない私になっていました。
自己肯定感の無い愛情は、
一方通行で、相手の愛を信頼する事が出来ない。
今はそう思います。
自分を支えるのは相手でも犬でもない。
私自身です。
私が私を支え、自立してはじめて、犬に正しい愛情が注げるのだと思います。
その自立している安定感が犬を支える事が出来る。
チャーリーママさんから頂いたのは、
この「肯定」という事です。
私の概念の中には自分を肯定するという事はありませんでした。
いつも反省し、挙句「なんて自分はダメなんだ」と思う事が、
謙虚であり、正しい事なのだ、とすら思っていました。
謙虚自体は悪い事ではないでしょうが、
それが、自己否定に繋がるものであるならば自分を支える方向へは向かわない。
自分を否定する事で、原因を探そうとする人が、
犬を否定的な目で見てしまうのは、むしろ当然だろうと思います。
レオを否定せず、支えられる自分であるためには、
私自身が自立していなければならない。
まず、自分を肯定出来る自分でなければならない。
それは謙虚さを忘れ驕り高ぶる事ではない。
あるがままに自分を受入れるということなのだろうと思います。
これは「境界線」の概念にも通じると思います。
誤解しないで頂きたいのは、
チャーリーママさんから頂いたのは、
「自己肯定感」であって、
「チャーリーママさんからの肯定」では無い、ということです。
チャーリーママさんに「肯定されている」から、
「自分を肯定する自信を得た」のではない、ということです。
先生から肯定されたい人にとっては分かりにくい事だと思います。
私自身、やっと「自己肯定感」を得る事によって、
「チャーリーママさん、これでいいですか?」と、
常に心のどこかにあったグズグズとした思いを振り払う事が出来ました。
もちろん、具体的な技術や問題点を洗い出す時に、
「これでいいですか?」と、自分より知識や技術のある方に問うのはアリです。
でも、私の持っていた「これでいいですか?」は、
そういう具体的な事ではなく、
自分を肯定する事が出来ない自分だけれど「どうですか?」というような……
「先生が良いという自分なら、自分を認めます」…と、
結局のところ先生任せ…という感覚。
これがある限り、自己肯定感には繋がりません。
先生に保証された肯定感って、結局自分じゃないですから。
先生という他者肯定感ですから。
つまりは「評価に怯える」状態から全く脱していないということ。
評価に怯え、先生からの肯定を得るために何かをする人は、
先生から肯定されていないとなると、
そこを逃げ出さずにはいられないでしょう。
しかし、先生が示したのは多分「肯定・否定」ではなく、
「正解・不正解」又は「是非」なのだと思います。
しかし、自己肯定感の無い人にとっては、
「不正解」=「否定」された…になってしまう。
評価に怯えると、
常に自分を肯定(=実は肯定ではなく、正解だと言い続けてくれる状態)してくれる先生を求めて転々とする事になるのだと思います。
自己肯定感をもって、レオと向き合って来たからこそ、
レオが他者の目に触れる時に、私自身がレオを支える事が出来る。
私が他者の評価に怯えていたのでは、レオを守る事など出来るワケが無い。
レオの為に色々いまでも頑張るわけですが、
思いがけず、自分自身に大きな宝物を頂きました。
これが犬育ての醍醐味なのではないか…と思いました。